ニューエコノミーとは、IT企業に代表される新しいビジネスの総称です。ニューエコノミーに対して製造業などの既存のビジネスはオールドエコノミーと呼ばれます。現在では、航空券、書籍の購入、コミュニケーションの手段など、生活にかかわる多くのことが新技術によって一変しました。インターネットの進歩は急速で、1993年に26000だったウェブサイトの数は1999年には500万までに増加し、現在も増え続けています。
産業革命によって農業中心の経済から製造業中心の経済へと変化したように、情報革命(IT革命)は私達の日常生活を大きく変化させました。それに伴い、1999年には、新興ハイテク企業の重要性が高まっているという理由から、マイクロソフト社と、インテル社(マイクロプロセッサの生産企業)が、ダウ工業平均株価指数の採用銘柄に組み入れられました。(※ダウはアメリカの株式市場で最も広く支持されている株価指数) ただし、オールドエコノミーが衰退したわけではありません。(デジタルエコノミーがアメリカ経済に占める割合は10%以下) オールドエコノミーとニューエコノミーは共存しています。
あらゆる企業のビジネスモデルが新技術の影響を受けて変化しており、そうした企業の顧客もまた影響を受けています。たとえば、現在の組立ラインはコンピュータ制御のロボットに依存しており、自動車修理工場では自動車の問題点をコンピュータが診断しています。商品の購入方法も、自動車・書籍・CDの購入、ホテル・航空券の予約などがインターネット経由で行われています。大学での講義のスタイルも変わり、教科書とウェブサイトが連携、学習のヒントや練習問題が提供されるようになりました。
IBMの台頭
1950年代では、コンピュータといえば巨大なメインフレーム・コンピュータのことでした。1台で数百万ドルもする高価なもので、それを利用するのは大企業か政府機関でした。1951年、アメリカの国勢調査局が、業務用に作られた最初のコンピュータ・UNIVACを購入。一般大衆がUNIVACの存在を最初に知ったのは、1952年に大統領選挙のニュースをCBSテレビが放送した際にUNIVACが使われた時でした。ほとんどの世論調査では大統領選は僅差になると予想していたのに反して、UNIVACはアイゼンハワーの大勝をたたき出しており、結果442対89とアイゼンハワーが勝ちました。(UNIVACの予想は438対93だった)
UNIVACはレミントン・ランド社によって製造され、たいていのアメリカ人が最初に出会ったコンピュータであるといわれています。IBM社は1959年に1401というモデルを投入し、コンピュータ産業での市場支配を確立しました。1401の成功は、IBM社が同時に開発に成功した新しい印刷技術によるところが大きいです。1401は1分に600行を印刷可能で、それ以前にIBMの売れ筋計算機の4倍のスピードでした。1401は計算機の2倍の値段でしたが、印刷能力が4倍になることを考慮すれば、その価値は十分でした。
1960年代初頭までのコンピュータ産業は、市場のごく一部にコンピュータを供給することで細々と生き残っていました。7人の小人と呼ばれる7つの小規模な企業で構成されており、当時は異なる機種間での互換性がありませんでした。IBM社だけでも7種類の異なるモデルを生産していましたが、その7モデルはそれぞれ独自の販売部隊と生産ラインを持ち、独自の部品を使用していました。
ソフトウェアの互換性もなく、より大型のコンピュータを購入したい企業は、新規に購入するコンピュータのためにアプリケーションソフトをすべて書き直さなくてはならず、時間の浪費とコストの問題がありました。
1964年3月、IBM社はシステム/360を発表。これは、互いに完全な互換性を持つコンピュータの製品ラインナップでした。システム/360はIBM社の成長を急速に促します。膨大な注文に応じるためにIBMは新たに組立工場を建設し、従業員を増やしました。(システム/360導入後の3年間で、IBM社の従業員数は50%増加。)
IBM社は1970年代を通じて、メインフレーム市場の75%を支配し、コンピュータ産業を支配し続けます。1970年代初頭の景気後退期には、RCA社とGE社はコンピュータの生産ラインを停止しました。この結果、コンピュータ産業には、IBM社とBUNCH(バローズ社、ユニバック社、NCR社、コントロール・データ社、ハネウェル社)だけが残ります。
IBM以外の小企業はIBM社が関わっていないニッチ市場を見つけ出すことで生き残りを図っていました。
UNIVACはレミントン・ランド社によって製造され、たいていのアメリカ人が最初に出会ったコンピュータであるといわれています。IBM社は1959年に1401というモデルを投入し、コンピュータ産業での市場支配を確立しました。1401の成功は、IBM社が同時に開発に成功した新しい印刷技術によるところが大きいです。1401は1分に600行を印刷可能で、それ以前にIBMの売れ筋計算機の4倍のスピードでした。1401は計算機の2倍の値段でしたが、印刷能力が4倍になることを考慮すれば、その価値は十分でした。
1960年代初頭までのコンピュータ産業は、市場のごく一部にコンピュータを供給することで細々と生き残っていました。7人の小人と呼ばれる7つの小規模な企業で構成されており、当時は異なる機種間での互換性がありませんでした。IBM社だけでも7種類の異なるモデルを生産していましたが、その7モデルはそれぞれ独自の販売部隊と生産ラインを持ち、独自の部品を使用していました。
ソフトウェアの互換性もなく、より大型のコンピュータを購入したい企業は、新規に購入するコンピュータのためにアプリケーションソフトをすべて書き直さなくてはならず、時間の浪費とコストの問題がありました。
1964年3月、IBM社はシステム/360を発表。これは、互いに完全な互換性を持つコンピュータの製品ラインナップでした。システム/360はIBM社の成長を急速に促します。膨大な注文に応じるためにIBMは新たに組立工場を建設し、従業員を増やしました。(システム/360導入後の3年間で、IBM社の従業員数は50%増加。)
IBM社は1970年代を通じて、メインフレーム市場の75%を支配し、コンピュータ産業を支配し続けます。1970年代初頭の景気後退期には、RCA社とGE社はコンピュータの生産ラインを停止しました。この結果、コンピュータ産業には、IBM社とBUNCH(バローズ社、ユニバック社、NCR社、コントロール・データ社、ハネウェル社)だけが残ります。
IBM以外の小企業はIBM社が関わっていないニッチ市場を見つけ出すことで生き残りを図っていました。
IBMの衰退、マイクロソフトの台頭
IBMは1970年代メインフレームコンピュータ市場を独占しました。しかし、新技術によりコンピュータがどんどん発達し小型化されていく中で、コンピュータ市場に閉めるIBMのシェアは低下していきました。この時期に開発された新技術は、後のミニ・コンピュータへとつながっていきます。IBMはこのミニ・コンピュータ市場での市場拡大をうまくとらえられず、DECやデータ・ジェネラル、ゼロックス、データシステムなどの企業が勝利することになります。顧客に対して、IBMが提供する特別なサービスやサポートも必要とされなくなりました。
そのころ大学では、1台のメインフレーム・コンピュータを複数のユーザーが同時に使うというタイムシェアリング・システムの重要性が高まっていました。タイムシェアリングとは、同じコンピュータを複数のユーザーが同時に使用する方法で、各ユーザーが一台ずつコンピュータを購入するよりも安上がりだったのです。多くの人々がコンピュータ産業を電力産業と同じように考えるようになっていきます。しかし、このような、コンピュータ・ユーティリティシステムを管理するためのソフトウェアの開発は当時きわめて困難でした。また、集積回路(IC)の導入もあり、コンピュータのハードウェアの価格が下落したため、2,3人のユーザーで使うことができる、小型のミニ・コンピュータが安く買えるようになり、経済面でタイムシェアリングのインセンティブが低下しました。
1966年、ミニ・コンピュータの数は世界で3600台でしたが、1969年には19000台に、1974年には15万台に増加していきます。
1970年ごろに、インテル社がマイクロプロセッサ(超小型演算装置、MPU)を開発します。プログラムによって制御可能なマイクロプロセッサは、ほとんどすべての人が購入できる水準までコンピュータの価格を引き下げました。1975年には、最初のパソコン・アルテア8800が登場。ユーザー自身が組み立てて使うタイプで、前面についているスイッチを入れることでプログラムが入力されるものでした。(メモリ不足のため、多くの作業をすることはできなかった)
アルテア8800の登場により、小規模な企業が外部メモリや記憶装置などの周辺機器を供給するという機会が生まれ、さらにソフトウェア・プログラムを提供するチャンスが生まれました。ビル・ゲイツとその友人ポール・アレンは、アルテアを販売していたMITS社と、アルテア8800洋のプログラムシステムを生産する契約を結びます。ゲイツとアレンはマイクロソフトという共同経営会社を設立し、MITS社にソフトウェア・システムを売るのではなく、ソフトウェアをひとつ売るごとに使用料を得るやり方をとります。
アルテアが登場してから多くの企業がパソコン市場に参入しました。パソコンは、本体およびソフトウェア開発のための立ち上げ費用が比較的安かったため、新規企業の参入が容易でした。
しかし、パソコン市場にIBMが参入し、IBM・PCは急速に業界標準となります。他の企業はIBMのクローンを作るか倒産するかというほどの状況に追い込まれました。ただしアップル・コンピュータだけは、まったく異なる系統のコンピュータを製造することで生き残ります。
IBM・PCは、インテル8088マイクロプロセッサなど他企業も購入可能な部品から組み立てられていたため、多くの企業がIBM社製品のクローンを市場に売り出すことができました。そうしたクローン製品のほとんどは労働コストの低いアジア地域で生産され、IBM・PCのクローンを作っている企業は競争を優位に進めていきました。逆に生産コストが高いIBMなどは結局戦いに敗れてしまいました。
パソコンが一般的になるにつれて、ハードウェアよりもソフトウェアのほうが重要な要因となっていきます。1981年から1984年の間に、パソコン用ソフトウェアの売上は1億4000万ドルから16億ドルへと成長しました。
ソフトウェアが重要になると、マイクロソフト社がその鍵を握ることとなります。事実上すべてのIBM・PCと互換機上でMS-DOSが動いていたからです。市場競争によりハードウェアの価格が下落する一方、マイクロソフトはDOSそしてウィンドウズによって、OSの支配権を握り続けることになります。
OS市場を支配することで獲得した収入により、マイクロソフト社はアプリケーション・ソフト市場にも参入。ワードとエクセルは市場のリーダーとなりました。コンピュータが複雑化するにつれて、ソフトウェアも複雑化していき、開発に何百人ものプログラマーが必要になったため、市場に参入できる企業が限定されてしまいます。参入障壁ができてしまったのです。
現在、マイクロソフトの創業者の一人であるビルゲイツは世界一の資産家です。しかし、IBMがパソコンによって脅かされたのと同様に、1990年台にはワールド・ワイド・ウェブの登場によりマイクロソフトの支配が脅かされることとなります。
そのころ大学では、1台のメインフレーム・コンピュータを複数のユーザーが同時に使うというタイムシェアリング・システムの重要性が高まっていました。タイムシェアリングとは、同じコンピュータを複数のユーザーが同時に使用する方法で、各ユーザーが一台ずつコンピュータを購入するよりも安上がりだったのです。多くの人々がコンピュータ産業を電力産業と同じように考えるようになっていきます。しかし、このような、コンピュータ・ユーティリティシステムを管理するためのソフトウェアの開発は当時きわめて困難でした。また、集積回路(IC)の導入もあり、コンピュータのハードウェアの価格が下落したため、2,3人のユーザーで使うことができる、小型のミニ・コンピュータが安く買えるようになり、経済面でタイムシェアリングのインセンティブが低下しました。
1966年、ミニ・コンピュータの数は世界で3600台でしたが、1969年には19000台に、1974年には15万台に増加していきます。
1970年ごろに、インテル社がマイクロプロセッサ(超小型演算装置、MPU)を開発します。プログラムによって制御可能なマイクロプロセッサは、ほとんどすべての人が購入できる水準までコンピュータの価格を引き下げました。1975年には、最初のパソコン・アルテア8800が登場。ユーザー自身が組み立てて使うタイプで、前面についているスイッチを入れることでプログラムが入力されるものでした。(メモリ不足のため、多くの作業をすることはできなかった)
アルテア8800の登場により、小規模な企業が外部メモリや記憶装置などの周辺機器を供給するという機会が生まれ、さらにソフトウェア・プログラムを提供するチャンスが生まれました。ビル・ゲイツとその友人ポール・アレンは、アルテアを販売していたMITS社と、アルテア8800洋のプログラムシステムを生産する契約を結びます。ゲイツとアレンはマイクロソフトという共同経営会社を設立し、MITS社にソフトウェア・システムを売るのではなく、ソフトウェアをひとつ売るごとに使用料を得るやり方をとります。
アルテアが登場してから多くの企業がパソコン市場に参入しました。パソコンは、本体およびソフトウェア開発のための立ち上げ費用が比較的安かったため、新規企業の参入が容易でした。
しかし、パソコン市場にIBMが参入し、IBM・PCは急速に業界標準となります。他の企業はIBMのクローンを作るか倒産するかというほどの状況に追い込まれました。ただしアップル・コンピュータだけは、まったく異なる系統のコンピュータを製造することで生き残ります。
IBM・PCは、インテル8088マイクロプロセッサなど他企業も購入可能な部品から組み立てられていたため、多くの企業がIBM社製品のクローンを市場に売り出すことができました。そうしたクローン製品のほとんどは労働コストの低いアジア地域で生産され、IBM・PCのクローンを作っている企業は競争を優位に進めていきました。逆に生産コストが高いIBMなどは結局戦いに敗れてしまいました。
パソコンが一般的になるにつれて、ハードウェアよりもソフトウェアのほうが重要な要因となっていきます。1981年から1984年の間に、パソコン用ソフトウェアの売上は1億4000万ドルから16億ドルへと成長しました。
ソフトウェアが重要になると、マイクロソフト社がその鍵を握ることとなります。事実上すべてのIBM・PCと互換機上でMS-DOSが動いていたからです。市場競争によりハードウェアの価格が下落する一方、マイクロソフトはDOSそしてウィンドウズによって、OSの支配権を握り続けることになります。
OS市場を支配することで獲得した収入により、マイクロソフト社はアプリケーション・ソフト市場にも参入。ワードとエクセルは市場のリーダーとなりました。コンピュータが複雑化するにつれて、ソフトウェアも複雑化していき、開発に何百人ものプログラマーが必要になったため、市場に参入できる企業が限定されてしまいます。参入障壁ができてしまったのです。
現在、マイクロソフトの創業者の一人であるビルゲイツは世界一の資産家です。しかし、IBMがパソコンによって脅かされたのと同様に、1990年台にはワールド・ワイド・ウェブの登場によりマイクロソフトの支配が脅かされることとなります。
ワールドワイドウェブ、インターネット
アメリカ国防総省高等研究計画局は、自らが資金提供しているアメリカ国内のすべてのコンピュータをより効率的に使用する方法を模索していました。たとえば国内の時差によって、A地点ではコンピュータが混み合っているのにB地点ではコンピュータが空いています。双方を効率よく稼動させることができれば理想的です。
ネットワークを通じて異なるコンピュータをつなぐARPANET(アーパネット)と呼ばれるネットワークが1969年に開始されました。カリフォルニア大学ロサンゼルス校、カリフォルニア大学サンタバーバラ校、ユタ大学、スタンフォード研究所(非営利の研究機関)の四箇所のコンピュータが結ばれます。このアーパネットが今日のインターネットの始まりです。1971年には、国防総省の資金提供を受けて、アーパネットは15台のコンピュータをつなぎ、1970年代を通してさらに拡大を続けました。しかし、コンピュータの価格が低下したことから、コンピュータを共有して利用することに対する需要は減少。コンピュータという稀少な資源を共有する手段としてなら、それ以上の拡大は必要なくなったのです。
しかしアーパネットのユーザーは電子メールという新しいネットワークの使い方を見出します。1970年代の初頭までに複数のネットワークが立ち上げられ、さらにこれらのネットワーク同士を結んで、ネットワーク同士のネットワーク、つまりインターネットを発展させるという構想が生まれました。そして1977年、インターネットが初めて成功します。当時のインターネットは主に大学及び国防総省関連の施設を結んでおり、国防総省は関連施設間の通信に対して信頼性を要求していたので、ネットワークの技術的な設計に関する多くの側面に重大な影響を与えていましたが、1982年、アーパネットから軍事関連施設が分離されました。
1990年、スイスにある欧州合同原子核研究機関という研究所で、ワールドワイドウェブ(WWW)という新しいアプリケーションが生み出されます。ハイパーテキストという言語が開発され、ユーザーが情報の一部分から別の情報の一部分へと移ることを可能にしました。そうして、WWWはインターネットの使用に新たな機会を開く環境を作り出したのです。WWWの登場で、WWW上のすべての情報を検索する手段が求められ、ネットスケープやインターネット・エクスプローラのようなウェブ・ブラウザが開発されることとなりました。
インターネットは、どんなOS上でも動くアプリケーションの開発という新たな可能性を開いたため、マイクロソフトの独占を脅かしました。マイクロソフトはユーザーとコンピュータ間のインターフェイスに関する支配を維持するために、OSであるウィンドウズにブラウザをバンドル(標準装備)しました。
このことが、マイクロソフト社とアメリカ連邦政府との法廷闘争につながっていきます。
ネットワークを通じて異なるコンピュータをつなぐARPANET(アーパネット)と呼ばれるネットワークが1969年に開始されました。カリフォルニア大学ロサンゼルス校、カリフォルニア大学サンタバーバラ校、ユタ大学、スタンフォード研究所(非営利の研究機関)の四箇所のコンピュータが結ばれます。このアーパネットが今日のインターネットの始まりです。1971年には、国防総省の資金提供を受けて、アーパネットは15台のコンピュータをつなぎ、1970年代を通してさらに拡大を続けました。しかし、コンピュータの価格が低下したことから、コンピュータを共有して利用することに対する需要は減少。コンピュータという稀少な資源を共有する手段としてなら、それ以上の拡大は必要なくなったのです。
しかしアーパネットのユーザーは電子メールという新しいネットワークの使い方を見出します。1970年代の初頭までに複数のネットワークが立ち上げられ、さらにこれらのネットワーク同士を結んで、ネットワーク同士のネットワーク、つまりインターネットを発展させるという構想が生まれました。そして1977年、インターネットが初めて成功します。当時のインターネットは主に大学及び国防総省関連の施設を結んでおり、国防総省は関連施設間の通信に対して信頼性を要求していたので、ネットワークの技術的な設計に関する多くの側面に重大な影響を与えていましたが、1982年、アーパネットから軍事関連施設が分離されました。
1990年、スイスにある欧州合同原子核研究機関という研究所で、ワールドワイドウェブ(WWW)という新しいアプリケーションが生み出されます。ハイパーテキストという言語が開発され、ユーザーが情報の一部分から別の情報の一部分へと移ることを可能にしました。そうして、WWWはインターネットの使用に新たな機会を開く環境を作り出したのです。WWWの登場で、WWW上のすべての情報を検索する手段が求められ、ネットスケープやインターネット・エクスプローラのようなウェブ・ブラウザが開発されることとなりました。
インターネットは、どんなOS上でも動くアプリケーションの開発という新たな可能性を開いたため、マイクロソフトの独占を脅かしました。マイクロソフトはユーザーとコンピュータ間のインターフェイスに関する支配を維持するために、OSであるウィンドウズにブラウザをバンドル(標準装備)しました。
このことが、マイクロソフト社とアメリカ連邦政府との法廷闘争につながっていきます。
政府とニューエコノミー
民間だけでなく、政府もITの発展に重要な役割を果たしてきました。第二次世界大戦中の政府の要求は結果的にパソコンやインターネットを実現する技術を生み出す研究を促進したといえます。基礎研究に対する政府の資金援助は、新たなアイデアを生み出したり、民間に知識を普及させる活動を支援する上で重要な役割を果たしてきています。これらのアイデアを基礎にして新技術や新しい生産方法、そしてさらに新しい生産物が生まれたのです。
また、国勢調査局による初代UNIVACの購入や、国防総省による衛星通信施設の購入からもわかるように、政府は新技術の重要な顧客でもあります。そして、政府は健全な競争を確保するために市場における企業の活動を規制したり、独占を阻止する努力をしてきました。アメリカ司法省および19の州が、マイクロソフトがパソコンのOSで独占的な生産者として権力を乱用しているとして訴訟に持ち込んだという話は有名です。1999年には連邦判事が「マイクロソフト社はOS市場に置ける独占的な力を利用して技術革新を妨げた」という判決を下しました。
マイクロソフト側は「そうした支配的な地位は常に新しい技術によって脅かされている」と主張しました。ここでいう新しい技術とはインターネットのことです。急速に変化するハイテク産業において公正な競争を保証するために政府がどうすべきかという問題については、さまざまな議論が交わされています。
また、国勢調査局による初代UNIVACの購入や、国防総省による衛星通信施設の購入からもわかるように、政府は新技術の重要な顧客でもあります。そして、政府は健全な競争を確保するために市場における企業の活動を規制したり、独占を阻止する努力をしてきました。アメリカ司法省および19の州が、マイクロソフトがパソコンのOSで独占的な生産者として権力を乱用しているとして訴訟に持ち込んだという話は有名です。1999年には連邦判事が「マイクロソフト社はOS市場に置ける独占的な力を利用して技術革新を妨げた」という判決を下しました。
マイクロソフト側は「そうした支配的な地位は常に新しい技術によって脅かされている」と主張しました。ここでいう新しい技術とはインターネットのことです。急速に変化するハイテク産業において公正な競争を保証するために政府がどうすべきかという問題については、さまざまな議論が交わされています。
日本におけるニューエコノミー
アメリカ政府は、新しい技術開発のために資金援助などを通じて新技術の開発や普及を促進しました。日本でも、日本政府はあらゆる形で日本のコンピュータ産業の発展を手助けする役割を果たしたといわれています。
1957年、日本にコンピュータ産業を構築する基盤づくりの目的で、通商産業省(現経産省)内にコンピュータ政策担当部署として電子工業課が設置され、さらに、コンピュータ産業の保護育成を目的とした「電子工業振興臨時措置法」という法律が制定されました。日本政府によるコンピュータ産業育成方針の明確化は、それまでコンピュータ産業への参入を躊躇してきた民間企業の側に市場参入インセンティブを与える要因となりました。そして1960年代には国産メーカーがコンピュータの生産を本格化させます。
しかしコンピュータ産業全体の規模はかなり小さかったため、政府はIBMをはじめとする外資系企業に対して日本国内での生産台数を制限するなどの非自由化政策を実施します。この保護政策により、日本企業が外資系企業との市場での競争を避けることによって成長しました。
1970年代に入ると、海外からの圧力もあり、コンピュータ産業の自由化も進展しましたが、一方で政府による新技術開発への支援も継続的に実施されました。1976年には通産省が積極的に関与しながら、富士通、日立製作所、三菱電機、日本電気、東芝の5社にコンピュータ総合研究所および日電東芝情報システムの2社を加えた7社をメンバーとしたVLSI研究組合が組織されました。政府は多額の補助金を供給することを通じて、VLSI(大規模集積回路)の開発を支援したのです。結果、このプロジェクトは日本の半導体製造技術の水準と研究水準を引き上げ、1000件を超える特許を生み出す成功を収めました。政府は資金援助を通じて民間企業の研究開発リスクを大きく減少させ発展に寄与したのです。
しかし1980年代以降には、コンピュータ産業はメインフレーム中心からパソコンやワークステーション中心への小型化が進んだにも関わらず、政府の政策は従来どおりメインフレーム中心の考え方に基づいたものだったため政策効果は限定的なものに留まることになってしまいました。
技術革新の方向性がある程度定まっている場合、政府の大規模な支援に基づく産業政策は有効ですが、市場や技術が急速に変化し始めると政府の大規模な支援を受けて開発された技術が市場で優位性を持つかどうかは、予想がとても難しくなります。
近年ではITの重要性が日増しに高まっており、政府の役割も重視されています。2001年には日本をITの世界最先端に導くべく、政府はIT戦略本部を内閣に設置、e-Japan戦略を発表しました。2003年にはそれをさらに進展させるためにe-Japan戦略Ⅱを発表。課題は、高度情報通信ネットワークの作成、人材育成、電子商取引の促進、行政・公共分野の情報化、ネットワークの安全性と信頼性の確保など。
こうした政府の政策の成否を分ける大きな要素は、政府が対象となる産業や企業の特性、直面する外部環境などを把握し、政府に何ができ何ができないかを明確にした上で政策を実施することにあるといわれています。
1957年、日本にコンピュータ産業を構築する基盤づくりの目的で、通商産業省(現経産省)内にコンピュータ政策担当部署として電子工業課が設置され、さらに、コンピュータ産業の保護育成を目的とした「電子工業振興臨時措置法」という法律が制定されました。日本政府によるコンピュータ産業育成方針の明確化は、それまでコンピュータ産業への参入を躊躇してきた民間企業の側に市場参入インセンティブを与える要因となりました。そして1960年代には国産メーカーがコンピュータの生産を本格化させます。
しかしコンピュータ産業全体の規模はかなり小さかったため、政府はIBMをはじめとする外資系企業に対して日本国内での生産台数を制限するなどの非自由化政策を実施します。この保護政策により、日本企業が外資系企業との市場での競争を避けることによって成長しました。
1970年代に入ると、海外からの圧力もあり、コンピュータ産業の自由化も進展しましたが、一方で政府による新技術開発への支援も継続的に実施されました。1976年には通産省が積極的に関与しながら、富士通、日立製作所、三菱電機、日本電気、東芝の5社にコンピュータ総合研究所および日電東芝情報システムの2社を加えた7社をメンバーとしたVLSI研究組合が組織されました。政府は多額の補助金を供給することを通じて、VLSI(大規模集積回路)の開発を支援したのです。結果、このプロジェクトは日本の半導体製造技術の水準と研究水準を引き上げ、1000件を超える特許を生み出す成功を収めました。政府は資金援助を通じて民間企業の研究開発リスクを大きく減少させ発展に寄与したのです。
しかし1980年代以降には、コンピュータ産業はメインフレーム中心からパソコンやワークステーション中心への小型化が進んだにも関わらず、政府の政策は従来どおりメインフレーム中心の考え方に基づいたものだったため政策効果は限定的なものに留まることになってしまいました。
技術革新の方向性がある程度定まっている場合、政府の大規模な支援に基づく産業政策は有効ですが、市場や技術が急速に変化し始めると政府の大規模な支援を受けて開発された技術が市場で優位性を持つかどうかは、予想がとても難しくなります。
近年ではITの重要性が日増しに高まっており、政府の役割も重視されています。2001年には日本をITの世界最先端に導くべく、政府はIT戦略本部を内閣に設置、e-Japan戦略を発表しました。2003年にはそれをさらに進展させるためにe-Japan戦略Ⅱを発表。課題は、高度情報通信ネットワークの作成、人材育成、電子商取引の促進、行政・公共分野の情報化、ネットワークの安全性と信頼性の確保など。
こうした政府の政策の成否を分ける大きな要素は、政府が対象となる産業や企業の特性、直面する外部環境などを把握し、政府に何ができ何ができないかを明確にした上で政策を実施することにあるといわれています。
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